From 泉岳寺
今日は品川にある泉岳寺に来ています。
泉岳寺は、言わずと知れた「忠臣蔵ファン」の聖地。
いつか行こう行こうと思っていて、やっと来れたので感動もひとしおです^^
そもそも、なぜ聖地なのか?
ズバリ、切腹した赤穂浪士47人のお墓がある場所なんです。
あらためて言うまでもありませんが、
「忠臣蔵」は間違いなく日本人の精神性に強烈なインパクトを残した出来事の一つです。
毎年のように正月の歴史ドラマで放送されているので、
忠臣蔵は今なお人気が高いのは簡単に想像できますよね。
その人気の核となるのは、やはり主君の仇討ちまでの浪士たちによる復讐劇。
浪士一人一人が決死の覚悟で人生最期のミッションを
成し遂げようと奮闘する生き様に、ただただ心打たれます。
泉岳寺には、資料館も併設されていてビデオの映像解説もあるので、
討ち入り時の様子や浪士の決死の覚悟がよくわかります。
そしてなんと言っても、切腹した浪士全員のお墓があるのは圧巻です。
今日も、たぶん熱狂的なファンであろう人たちが、
一つ一つのお墓の前で線香をあげながら手を合わせていました。
「己の命を何に使い、そして捧げるのか」
泉岳寺に来れば嫌でも考えさせられる、まさにそんな場所です。
と、まぁそんな感じで、
歴史のロマンと未来への希望に思いを馳せていたわけですが、、、
ただ、どうも納得できないことや腑に落ちないことがたくさんあるんですよ、この忠臣蔵という物語には。
単刀直入に言うと、「話が美化されすぎだろ!おいコラ!」と言いたいw
いや、別に忠臣蔵のことを批判するわけではないですよ!
僕は、忠臣蔵がめちゃくちゃ好きですし、ファンの一人です。
ただ、、、
僕の頭の中には「?」で溢れてるわけですよ。
- そもそも、なぜ江戸城で刃傷事件なんて起こったのか?
- 事件の原因やそれを取り巻く背景とは一体どのようなものだったのか?
- 「さぁこれから討ち入りだ!」という時に、一人の浪士がこっそり討ち入り前夜に切腹してるのはなぜか?←これ、泉岳寺に行って初めて知ったこと。
- いわゆる「討ち入り不参加組」の赤穂浪士達が世間から不忠義者と非難されるのはおかしくないか?
などなど、、、
挙げたらきりがありません。
これはあくまでも僕の持論ですが、
「世間から支持されていたり、社会から高く評価されていればいるほど必ず何か裏がある」
そう思っています。
そこで今日は、「これは今の時代にも通じるものがあるなぁ」と思った、
ある一つのエピソードをシェアします。
現代社会でも、忠臣蔵で起こった悲劇が形を変えて同じように繰り返されています。
今日の話を読んで、ぜひあなた自身を振り返ってみてくださいね。
ある一人の浪士の知られざる悲劇
忠臣蔵47義士の一人に、
萱野三平(かやの さんぺい)という人物がいます。
おそらく忠臣蔵のファンという人でも、
知っている人は少ない名前だと思います。
僕も泉岳寺に行って初めて知った人物です。
ちなみに、泉岳寺の主な見どころは、
- 切腹した浪士全員のお墓
- 書物や文化財が保管されている資料館
- 浪士全員の木像が展示されている木像館
主に、この3ヶ所あります。
個人的に、この3ヶ所の中で圧倒的に人気が少ないと思われる場所が木像館です。
館内は、水をうったようにシーンとしていて、正直、薄気味悪い。。苦笑
ちなみに、僕が行った時は人が誰もいなくて、
木像が今にも動き出しそうでビクビクしながら見学していました。
そこで一つ、違和感を覚えた木像を発見したんですね。
一体だけ肌の色を青色に塗られた木像がありました。
他の像は全部、人間味の感じる茶色やベージュで作られているのに、
「なぜ、この人だけ幽霊みたいに青く作られているんだろう…」と、普通は思いますよね。
そうです。
その人物こそ、今回の主人公の萱野三平です。
実はこの人、吉良邸に討ち入り前に自殺した人なんです。
「さぁこれから討ち入りだ!」と士気を高めている最中に、一人ひっそりと命を絶ちました。
普通に考えたら、まったく理解できないですよね。
おそらく忠臣蔵ファンの人でも、この事実を知っている人は少ないと思います。
でも僕が思うに、この萱野三平という人物の自殺こそ、
忠臣蔵の一番の悲劇なのではないかと思っています。
なぜ、討ち入り前に自殺したのか?
結論から言うと、主君への「忠義」と家族への「恩義」。
どちらも捨てることができず、
二つの板ばさみに苦しんで最後の最後、自ら命を絶つという選択をしました。
萱野三平の悲劇が起こるまでの簡単な経緯は、以下の通りです。
👇
江戸城で起こった刃傷事件後。
赤穂浅野家はお家断絶。
領地は幕府に召し上げられた。
赤穂藩の藩士と足軽計1000人余りと、
その家族は路頭に迷うことになり、それぞれ散り散りバラバラになった。
その一人の萱野も一介の浪人になってしまった。
簡単に言えば、無職になったということ。
当時は、仕官先(職場)を失ったら別の仕官先を探すことが、
浪人侍の普通の身の振り方であった。
そんな萱野の不運を見かねた父親が、
新しい仕官先の話を持ちかける。
その仕官先は大嶋家。
大嶋家は戦国時代に土地を失った萱野家を再興させた恩ある主君の家であった。
しかし、萱野はすぐにこの話に飛びつかなかった。
いや、飛びつくことなどできなかった。
なぜか?
今は亡き主君、浅野家の忠義のために。
父に再仕官の口を見つけてもらうために、
これまで浪人を続けていたわけではない。
浪人を続けている理由はもちろん、
来る「吉良邸討ち入り」のためであった。
その頃世間では、
「いつ赤穂浪士が主君の仇を討つのか?」という噂が絶えなかった。
父・重利は当惑した。
もし討ち入りすれば、
ただ事では済まされないということを簡単に想像できたからだ。
討ち入りは、幕府の判断に対する反抗という意思表明である。
勝っても負けても、罪を問われるだろう。
親戚・縁者に罪が及ぶのが当時の習わしだった。
場合によっては、恩ある主家・大嶋家にも被害が及ぶかもしれない。
旗本である大嶋家の家臣の者から、
討ち入り参加者が出たということで罪を問われる可能性は十分考えられた。
父として、是が非でも息子には大嶋家に仕官して欲しかった。
そんな矢先萱野は、「江戸に出て仕官先を探す」と父に言い残し一人旅立つ。
「まさか・・・」
父は気が気でなかった。
そして、元禄15年1月14日。
萱野三平自害。享年28。
奇しくもこの日は月こそ違えど、
主君の浅野内匠頭の命日と同じ日だった。
ざっとこんな経緯です。
今となっては、当時の萱野が何を思い、
何に悩んでいたのかを知ることはできません。
ただ、一つ手がかりとなるのは、
残された2通の遺書から当時の萱野の心境をうかがい知ることができます。
その2通は、父・重利と討ち入りのリーダー大石内蔵助に宛てて書かれていました。
大石宛てのものには、同志達と共に約束を果たせない罪を侘び、
そして討ち入りの成功を祈る旨が記されていました。
俳人でもあった萱野が、最後残した辞世の句。
晴れゆくや 日ごろ心の 花曇り
「心の花曇り」とは、
おそらく萱野の心の板ばさみとなった「忠義と孝行」のことでしょう。
忠義の信念を貫けば、
親兄弟に罪が及び「孝行」が立たない。
だからといって、
大嶋家へ再仕官すれば孝行はできるかもしれないが「忠義」が立たない。
あっちを立てれば、こっちが立たず。
「日ごろ」とあるから、きっと来る日も来る日も悩んでいたのでしょう。
そして、「晴れゆくや」。
最後「死」という道を選ぶことで、
来る日も来る日も萱野の心に立ち込めていた「花曇り」は、
すっきり晴れ渡ってい他のかもしれません。
こんな言葉があります。
武士道とは、死ぬことと見つけたり。
武士道書である『葉隠』の有名な一説です。
この言葉は「武士は無条件で命を捨てるべきだ」とか、
「命を落としてこそ一人前」のような意味だと思われていますが、
「いつも死ぬつもりで生きている」と解釈するべきです。
まさに武士道を最後まで貫いた、
そんな人物だったのではないでしょうか、萱野三平という人物は。
現代でも繰り返される悲劇
この一件は、けっして人ごとではありません。
今でも形を変えて、似たような事件はたくさん起こっています。
人間には本来「役割」を果たそうする強い動機が備わっています。
それは、人生における自分の役割をもっと良くこなしたいという感情。
例えば、
- もっと威厳のある父親になりたい
- もっと優しい母親になりたい
- もっと手のかからない聞き分けのいい子供になりたい
- もっと人から尊敬される社長になりたい
- もっと部下から慕われる上司になりたい
- もっとかわいい彼女でありたい
などなど、、、
「人からどう思われたいか」といった欲求です。
この欲求が過度に働いたことにより引き起こった悲劇の例として、
代々医者の家系で生まれ育った子供が、親のプレッシャーに耐えかねて不幸な結末を選んだ人を僕は知っています。
親のエゴを優先するのか。
それとも、子供の自立心を尊重するのか。
すべての根本は「人から認められたい!」という、
承認欲求からきていることを忘れてはいけません。
人間の心理は、今も昔も変わりません。
おそらく100年後も、1000年後も変わらないことでしょう。
忠誠心。親孝行。親が子を思う気持ち。義理人情。思いやり・・・
こうした人間本来に備わる心理を理解しつつ、
「役割を果たしたい!」という人間の根元的欲求に寄り添える人が、
今も、そして、これからますます求められていくことと思います。
僕たち一人一人が、そんな「寄り添える人」になれるように努力をしないといけませんね。
第二の萱野三平の悲劇を繰り返さないために。
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